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すずきじゅんじ Junji Suzuki の個人ブログ(はてな、はてブ用)

「バス車内でベビーカーたため」のニュース。自分ならどうしたか?

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「社会についておとながていねいに話をしてあげるたいせつさ」【その2】
(普段はブックマークコメントに100文字以内で意見や気持ちを書き込むのですが、だいじなことだと思ったのでこちらに書きました。)


私だったらどうするか?

わたしがこのバスのなかに居合わせたらどうするか?
どういう行動をとるのか?


 状況を観察判断した上ですが、すぐに苦情を言った男性に笑顔で「あ、これは気づかなくてごめんなさい。いま私がたたみますね。」と男性の目をしっかり見ながら言う。そのとき自然に男性とお母さんの間にからだをいれて立って、お互いの顔が直接見えないようにする。
お母さんに「いまいったん畳みますね。降りるとき私手伝いますからね」と言って畳む。
苦情を言った男性の要望を素直にかなえる対応をいったんすることで、それ以上なにか言うのは「無茶だ」というのは本人にも周囲にも判るから、それ以上おおごとにはなりにくい。(これ以上絡むのはまた別のケース。)
このとき、必ず、おだやかな話かたをすること。
ケンカ腰の言い方や、とがめるようなトーンで話さない。
また大声を出すと、車内の子供や繊細なひとがとてもこわがります。
(さらなるトラブルや事故の原因にもなります)

苦情を言った人をよく観察した上で、もういちど「じゃまになってしまってスミマセン」と言ってもいいし、
「言われるまえに畳んでおけばよかったですねスミマセン」と言ってもいい。
状況によっては、相手から「よく乗るんですか?」「どんな時間帯だとすいてますか?」など教えを乞い、
それについてお礼をのべたりしても、今後のためによいかもしれない。
「いまはルールが新しくなって畳まなくてもよくなってるらしいですが、やっぱり混雑状況におおじて臨機応変ですよね」と伝えたり。
できたら、次におなじ状況があったときに、この苦情を言った男性自身が、この母子を守ってくれる、守ろうと思う方向にもっていける解決対処がいちばんいい。

お母さんと赤ちゃんに話しながら笑顔をむけてあげるといい。
じゅうぶん余裕をもって対処してますと無言でつたえて安心してもらう。

こういう場に関わった以上、自分の予定などはずらしたり損しても、さいごまで責任をもつ。(男性か母子どちらかが降車するまで見届ける。自分の停留所をすぎてもこういうときはしかたない。折り返して戻ればいいだけのはなし。)


この話でだいじなのは、
『 目的は だれかとケンカすることではない 』
『 「敵」をつくってやっつけたり、言い負かしたり、追い詰めることじゃない 』
『 地域の生活はあしたも続いていく 』
『 苦情を言った男性もなにか事情があるかもしれない。身体の不調や、困っていたり苦しいことがあるかもしれない』
『 苦情を言った男性も、母子も、明日以降もそのさきもバスに乗る。自分がいない時も。』
『 周囲も含めた安全に責任をもつのがいちばんだいじ 』
『 自分が気持ちよくなることを第一とした『正義』は迷惑や危険を生じさせる 』
『 実際その行動があしたにどうつながっていくのか 』
『 自分自身は日本社会をどういう社会にしていきたいのか?
 その当事者のひとりとして、現実に責任を負って行動する 』
ということです。

本当に強いほうが「損」を引き受ける。
本当につよいほうが「ゆずる」


ここで書いたことは、私の本心であり、ただ頭で考えた理想論を述べているだけでなく、実際に何度も似たような状況で体験・実行してきたことです。


実際に毎日まちのなかで活動をしています
参考リンク:

世田谷区の「交通安全・みまもり・ゴミ拾い」じゅんちゃんおじさん – Pick up Litter , Road safety , Watch over


ただし、これは「私がいま現状でそうしている」というだけであって、
それが本当に正しいのか、一番よい対応なのかは、わかりません。
実際失敗して、こちらが下手(したて)にでることでさらに相手が居丈高になって調子づいたり、
ときには、私の言葉づかいが一貫して敬語で低姿勢なので、あとからその場にきた状況を知らない人から、私のほうがなにかトラブルの原因をつくった「悪者」のように誤解されることなどもありました。

毎日、なにがいちばんよいやりかたなのか。
まよいながら、かんがえながら、社会のなかの一員として日常生活をし、
地域の活動をしています。

この文章は、町のなかでトラブルの現場に偶然立ちあって「どうするのがよいのか判断がむずかしい」状況を考えるヒントになればという思いもあって書いています。

これが「絶対の正解」というものはたぶん無いのだろうと思います。
ひとによって、そのときの状況によって、よりよい対処方法(正解)はかわるのだろうと思います。

どんな対処をしたとしても、後日それをひとによっては褒めてくれたり、ひとによっては「それはちがうんじゃないか」と批判されたり、苦情を言われることもあると思います。
場合によっては、ああ、関わらなければよかったと後悔することもあるだろうと思います。

わたしは、だれかに正解だと認めてもらうというよりも、
自分自身のこころの奥底から、「それでいいんだ。この場では自分のできるだけのことをした」
と思える行動ができるのがよいのかな、という気がしています。

また、そういう行動ができるように、日ごろから社会で起きる出来事や問題、事故や事件に対しての知識や、情報、関連する法律や、それについてのいろんな角度からの意見などを自分なりに勉強したり、謙虚に学んだり、ひとにやさしくできたり、じぶんよりよわいものをまもれるだけの力をつけていく、また、まわりのひとに信用してもらうための日々の積み重ねがだいじなのだろうと思います。

人間には よいところも、そうでないところもある。
だから、よいところをなるべく自分でも生かして、のばして、そうでないところをなるべくちいさくなるようにしたり、足りない部分をたすけてもらって、そのかわり得意な部分でじぶんが役に立つようにうごいたり。

社会はすべてつながっていると思います。

だれかが都合のよいうわずみの部分だけとって、ラクをしてひとまかせに遊んで暮らす、ということはできないし、おたがいにたすけあって、おもいやりをもって、できるはんいでやっていく。
それが社会という集団(群れ)でいきるということなんだとおもいます。

(※文章の推敲をしてませんがとりあえず投稿します。)