増田『前から来る人を絶対に避けないとどうなるのか』について
↑こういう話題がでていました。
読んでみて、私は、この文章はまじめな問題提起の気持ちで書かれていると感じました。
インターネット上では「エスカレーターを歩くか否か」も、しばしば論争になっています。
たいせつなのは、自分自身が「どんな社会にしたい?」とかんがえているのか
私は、いつも「社会はすべてつながっている」と思っています。
つよく意識すべきは、その目の前の事象(問題)よりも、その先にある「(私は)どんな社会・世の中にしたいのか?」。
各自ひとりひとりが、自分自身のこころによくきいてみて、ゆっくり考えてみて、
「いろいろ考えてみたけど、現状の先には、やっぱり自分はこういう風な社会になってほしいな」
というその姿を自分のアタマと心でしっかり築くことだと思います。
そこへむけて、
目の前の問題をじっくり観察し、検討し、自分以外のひとたちの見方や意見もきいて、
じゃあ、じぶんののぞむ未来のカタチへ近づけるためにはどういう方法があるだろう?
こんなやりかたをしてみよう、ためしてみよう。
そうやって、実際の日々の行動につながっていくのではないでしょうか。
自分はどうしているか?
私は 必ず、自分が 待ったり、ゆずったり、よけたりします。
強いほうがよける、ゆずる、
強いひとが弱いひとをまもる、
町のなかで、実際にその姿を目でみて、
若い人たちや、子供達に 覚えてマネをしてほしい気持ちがあります。
カラダが大きく力の強そうなひとがワガモノ顔でほかのひとを「どけどけ」と言わんばかりにけちらしながら悠然と歩く姿や、
自分が(時間を)得することだけを計算し最優先に考えて、早足、耳栓イヤホンで語学学習や音楽を聴きながら、歩きスマホで情報取得やゲームをしながら歩行する姿、
それに対して、
進行方向や後方、ほかのひとの歩む速度やすすむ方向予測にも気をくばりながら、
つまずきそうなひとがいたら手をだせる姿勢、
前方不注意でいきおいぶつかりそうなひとがいたら、自分が無理ない角度でかべになって進路をずらしてあげる、
高齢者であゆみがゆっくりペースだったり、子供連れで進行が不安定なひとに対してうしろから「あおる」ような歩行者がでないように、その後方でまもってあげる。
実際にそのすがたをいまを生きる社会のひとたちに見せてあげる。
どっちが「カッコイイ」とあなたのこころは思いますか?
「おもいやり」を、一度は、おとながおしえてあげる責任
私は、むかしは「人間にはもともと思いやりや優しさがそなわっている」と考えていました。
だから、「いつかだれもがそういうものに気づくだろう。それぞれのこころの内にあるものなのだから」
という気分でいました。
しかし、それは結局、「自分からはそのことについて世の中に はたらきかける努力や行動は特にしない」
という「手抜き」や「なまけ」の言い訳のつじつま合わせを無意識にしていたのかもしれないとも思うようになりました。
UFOやオバケを一度も見たことのない人が、UFOやオバケの存在を信じられるだろうか?
「やさしさ」を一度も体験したことがなかったり、「おもいやり」を一度も実際にみたことがない人が、それを「よいもの」だと知ったり、自分の中に「種(たね)」をもっていたとしても、それがうまく成長させることができるだろうか?
社会はすべてつながっていると私は思います。
そして、社会とは、そこにすむ人間ひとりひとりの日常生活であり、その瞬間瞬間でのふるまいの総和だと言えるのではないでしょうか。
とはいうものの、ブックマークコメントに集まっている声は、正直な実態だと思います。
(※あとで何個か具体的に追記)
自分の体験と照らし合わせてうなずけるコメントがほとんどです。
「きれいごと」だけで世の中が変えられますか?
(※今後 書きたい内容)
付記
この文章は、「社会についておとながていねいに話をしてあげるたいせつさ」【その3】です。
普段はブックマークコメントに100文字以内で意見や気持ちを書き込むのですが、だいじなことだと思ったテーマについて、ブログで書くようにしています。
(※あとで追記)
・車の運転(道路のすれ違いやゆずりあい)の話題もでています
・「はてな匿名ダイアリー」過去に同様な話題がときどき出ています。
(※この記事は時間がなくて昼休み時間に書ききれなかったのであとで修正すると思います)