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公衆衛生マスク議論(落ち着いてきた今あらためて各自が考えてみる)更新2023年3月20日

2023年3月20日追記:

2023年3月18日追記:

◆接種の184件を認定 2023年3月17日
 厚労省健康被害審査第一部会の審議結果公表

◆報道: 接種後死亡の11人に一時金支給
  因果関係否定できず 2023年3月15日

2023年3月12日追記:

日本国内の政府専門家(責任をもって本名と顔写真をだして公で発言している人達)へ 私個人がしたい質問:

①マスクにたまったウイルス・細菌は増えるのか減るのか?
②それは何分間で起きるのか?
③それを着用し続けたり、飲食店内へ持ち込んで食べ物の近くに置くことは公衆衛生として良いか? 鼻をかんだティッシュとの違いは?
④自分が今つけているマスクのウイルスの量を実測したことがあるか?
⑤自分が今つけているマスクを自分自身で電子顕微鏡を使って見たことがあるか?
⑥輸入されている「注射用製品」を自分自身で中身を解析したことがあるか?
⑦(「注射用製品」の購入契約条件・総支払額は政府に質問)

⑧2021年2月 大阪府高槻市の小学校で5年生がマスク着用のまま持久走をして死亡する事故が起きています。
幼児・子供の成長期のマスクによる心身発達への影響も心配されています。
そういうことも総合的にじゅうぶんに考えた上で整合性をそなえた発言・提言になっているか?

小5男児が持久走後に死亡…体育授業開始時に“マスク着用” 大阪・高槻(2021年5月27日放送)

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2023年3月10日追記:

共同通信

NHKが副反応について正面から大きく報じるのはこの三年間みかけたことがありませんでした 

2023年3月6日追記:
★★重要★★
福島雅典 京都大学名誉教授 と厚労省のやりとりをわかりやすくまとめています
厚労省はなかったことにしないで!接種後に亡くなった遺族の声と接種者の致死率のデータ~ サンテレビNEWS 2/28
★★★

2023年2月24日追記:

・USA TODAY

 Idaho bill would criminalize administration of 

コクランレビュー(オックスフォード大学 疫学者 トム・ジェファーソン)Mashup


2023年2月23日追記:

 

海外製薬企業と政府の不平等契約【 福島雅典 × 井上正康 】

★ 福島雅典 京都大学名誉教授 「厚生労働省へ情報開示請求裁判」(2023年2月2日司法記者クラブ

 厚労省は2021年までは公開していた「接種者の致死率」を昨年のデータからはすべて削っている。致死率の開示を求めて訴訟

要約すると、
全体では、接種した人のほうが致死率が高い
『65歳以上では、接種した人のほうが致死率が低い』
というデータを2021年は厚生労働省が公文書として(正直に)公開していたのに、2022年以降のデータ統計が削除されている。(つまり、接種をすすめる根拠がないにも関わらず、接種を推奨しつづけていることが科学的におかしい!という指摘)

 ニコニコ動画
 ・【完全版】2023.2.2福島雅典教授、厚労省に対する訴訟記者会見

 動画配信サイトodysee

 ・記者会見1 記者会見2 記者会見3
 ・記者会見を終えて(解析してはいけない契約?)
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追記: ・国産、初の工場: 日本経済新聞

 2023年2月現在「国産」の工場について報道があります。
 ・株主は誰か?(信託銀行や企業ならさらにその株主も確認)
 ・実体が海外の現地会社や単なる下請け生産工場でないか?
 ・海外へ特許料を払っているか?
 ・海外と特殊な秘密保持契約を結んでいないか?
 ・工場の計画はいつから存在したか?
 ・国産の他社の現状はどうか?
 などもよく確認理解する必要があると思います。

また、
 どのメーカー製なのか、どの変異株対応製品なのか、どの製造ロットなのか、によっても品質や効果効能に差があり、また、その情報公開がない状態で、一般の人が判断や選択を迫られている不公正な現実があるのではないかとの指摘もなされています。
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メディアが報じない遺族の声 遺族記者会見 前半

 ↑ 特にさいごの「お母さんの声」をきいてほしいです


我那覇真子 Masako Ganaha @ganaha_masako 2022年
『生配信』危機の真実 宮沢孝幸先生インタビュー12月11日

https://twitter.com/i/broadcasts/1rmGPkELXEnKN

◆ふしぎなこと:

 なぜ「専門家」を名乗っているのに、その医療情報と医療行為に「保証」ができないのか?
 なぜ「なにか間違いが起きたら専門家として私が責任をとります」が言えないのか?
 なぜ「全面的な免責をかかげて一般シロウトの個人の決断に責任をゆだねる」のか?
これら責任を果たさない、果たせない、で、本当にそれらのひとは「専門家」なのか?
「専門家」として遇するその価値があるのか?

 例:家を建ててすぐにその家が倒壊したら、設計業者も建築施工業者も賠償責任(瑕疵責任)を負います。料理人がお客さんに料理をだしてその客がそれを食べておなかをこわしたら、料理人も店の経営者も責任を問われます。工場で作った製品に欠陥があれば製造責任者はその責任を負います。それが普通の「仕事と責任」です。

 「専門家」が責任をとれないのも当然で、2022年12月時点で、日本国内の「専門家」も「医師」も、その成分のなかみを「独自に調査・解析していない(海外の特許に抵触して訴えられるのが怖い?という理由で。)」ということが上記動画で言及されています
もし「専門家」を自称してなにか語っている人がいたら「あなたはその成分・品質について自分自身で現物を解析してみましたか?」と質問してみてください。
「あなたは問題が起きたとき専門家として賠償責任を負ってくれますか?」と質問してみてください。

 自分自身の目で調査も確認も品質保証もしていないものを、子供達にすすめる。なにかあってもすすめた責任はとらない。しかも支払う巨額の代金はその子供達世代のツケで。さらに問題が起きたときの代償まで子供達自身が支払うことになる。
 果たしてこの現状は正しいでしょうか?
 こういうことをしていくと、世の中はどうなっていくでしょうか?

◆この公衆衛生問題を真剣に考える方法(すずきじゅんじ の意見)

インターネット上にはさまざまな意見が存在しますが、

① 発言者が自分の本名、自分の顔画像をだしている意見だけ読む。
 ウソの自画像やウソの名前をつかって発言している意見を読んでも時間の無駄になります。ひとの命のかかった真剣な社会の問題に対して、本名顔出しで意見できない人は、「自分の発言に責任を持てませんという自己紹介」または「まだ責任がとれない半人前かその覚悟がない」ということです。
 本名や顔を隠していれば、いくらでも意見を複製して発言できるし、外国や、利害関係者からお金をもらって都合のよいことを言ってまわっていたとしても判別がつきません。無責任なことや風説の流布、詐欺や犯罪行為をして逃げる準備、逃げる前提で顔を隠しているかもしれません。
だから、たとえ「医師」や「専門家」を名乗っていても、そういう発言は「迷惑メール」とおなじだと思って無視しましょう。

② さまざまなちがう意見を読む、きく。
 異なった意見、内容が正反対でもよいので、まじめにこの問題に取り組んで情報を発信している人の意見を複数、なるべくちがった角度や立場の意見を読みくらべてみるのが良いと思います。なるべく長い期間に渡って。
 卑近な例ですが、インターネットでなにか買い物するとき、「良いクチコミ」だけを読んでいたらだまされてしまいますよね?
「悪いクチコミ」と「普通くらいのクチコミ」も複数読むと、全体の本当のところを自分で判断や把握する参考になるはずです。
さらに情報収集が上手なひとは、同じ商品・製品を別のお店(ショッピングサイト)でも調べてクチコミを読んだり、さらには海外のサイトのクチコミまで調べたりしますよね。

③ 過去に実際に起きていることを参考にする。
 わからないこと、むずかしいことは、たくさんあります。「自分で調べて、考えて、判断しろ」なんて言われてもそれはたいへんなことです。
 専門の研究者にも正反対なことを言う人がいるのに一般の人がどうやって正しい答えを見つけられるのか。
 こういうときに、過去に身近に実際に起きたことが参考になると思います。

・「薬害」は日本国内で起きたことがあるか?
   薬害 Wikipedia   薬害訴訟の一つ HPV
 どうやって起きたか? どうやってそれが判明して、どういう結果になったか?

・「薬品」製造の不正、検査不正、不備、不祥事は日本国内で起きたことがあるか?
  最近(2021年~)では国内「ジェネリック医薬品の不正製造」も。
 「食品」などでラベルに書いてあるものと違うものが入ってることが起きたことはあるか?
 2023年2月 追記:点眼薬で感染症や死亡の報告 メーカーがリコール発表 米FDA
  アメリカで一般購入できる目薬で死亡事故が起きています

・世の中に「自分のお金儲けのためにウソをつく人間」はいるか、いないか?
 日本国内にはどうか? 外国人はどうか?

④ どのような「薬品」であれ、製品、サービス、行政システム、なんであれ、「議論」と「情報公開」「検証」があってこそ、改善や改良がすすむのではないか?

 より安全度の高い製品や、よりよい方法、というモノはこれまでそうやって作られてきたのではないか?
「お客様の声・感想」があがったり、なにか不具合や事故が起きてその「検証・改善・再発防止策」が実行されることによってこそ、より良い品質、より安全な製品やサービスが生まれるのが世間一般のやりかたではなかったか?

 設計や施工にウソや不正があって新築大型マンションビル一棟まるごとつぶして再度建築し直すといったことが起きている世の中です。また、世界中のいわゆる「一流」とよばれる数々の自動車大企業で、排気ガスや燃費の発表されている数値に偽りがあったニュースは多くの人が記憶しているはずです。

「調べる」「検証」ということを「まるでしない」ということは非常に不自然なことではないでしょうか?


◆以前は動画配信サイトで削除されたり、検索しても出てこないようになっていた内容の情報が、最近は普通にさがしても見つかるようになってきました

メディアが報じない遺族の声 遺族記者会見 前半
特にさいごのお母さんの声を聴いてほしいです
 →◆修正なし版

被害者遺族会  ・超党派議員連盟
なぜ息子は死亡したのか?中学一年生の13歳少年 入浴中溺死

大石が聞く:接種後に家族が亡くなった遺族会が厚労省と初の対面
報道のチカラ(CBCニュース・CBCテレビ公式)
健康被害で 新たに81人の健康被害救済認定

接種後に死亡が19件…読売新聞オンライン
急死した中日・木下雄介投手 | 文春オンライン
開示資料は“ほぼ黒塗り”40代女性の接種後死亡から1か月 東海テレビNEWS

接種後死亡、アナフィラキシーか 愛知県医師会 中日新聞Web

誤接種 同姓夫婦と取り違え 木更津 | 千葉日報オンライン

4歳児に小児用誤接種 受け付けミス、接種時にも年齢確認せず | 岐阜新聞Web

6回目80代男性に誤接種 四街道市民 | 千葉日報オンライン

接種 間違い事例集 - 福島県ホームページ

★「間違い接種」で検索すると本当に驚くほどたくさんの報道が出てきます。ほぼすべての都道府県で「まちがい」が起きていて、注意喚起のための「事例集」が各自治体にあるほどです

有効期限切れ、年齢を勘違い…なぜ誤接種が相次ぐのか? | 南日本新聞

小児の接種にて有効期限切れ事案について | 富谷市ホームページ

期限切れ6医療機関で計161人に接種 群馬・伊勢崎市 | 上毛新聞社

那覇市で子ども39人に有効期限切れた誤接種 – QAB NEWS
・「○○○○ 使用期限 延長」で検索すると全国で事例が見つかります。「使用期限」「有効期限」とは何なのか?

有効期限の延長について 横浜市

どうして救済は遅れるのか|webちくま
接種開始時期と死者増加時期が一致のデータ|NEWSポストセブン


米 約76万回分を回収 異物混入で | ロイター
山路徹氏 兄の急逝「接種してから2日後」「死の真相を
 ↓
接種2日後に兄が急死 ジャーナリスト・山路徹氏が自ら取材

「対策予算は約104兆円」 利権の真相

接種後に突然死など 新たに5人に一時金支給へ 因果関係否定できず 厚労省

接種の64件を認定 - 医療介護CBnews

接種すればするほど感染しやすくなる可能性|NEWSポストセブン
 抗原原罪(こうげんげんざい original antigenic sin )

打つほど罹りやすくなる証拠 | アゴラ

抗体依存性感染増強(Antibody-Dependent Enhancement:ADE

女性の生殖への影響   CDCデータ

インドの貧困街で「無料」4日後に嘔吐や黄だん…「試験なら接種しなかった

「心臓が溶ける」「ゼリーのような血栓」医師たちが「きいた」遺体の声
謎の「肺炎」「老衰」「高熱」接種後1~2ヵ月で突然死

「声を上げずにはいられなかった」安全か? 医師たちの本当の声

接種後、体に異変 国にも医療機関にも見放され|ゲンダイ


接種後死亡の36歳、救済認定 遺族「早く審査進めて」毎日新聞

考えてみる:

 上記「まちがい接種」でもわかるとおり、命に関わることを国家資格を持つ専門家が高給で担当しても「まちがい」が実際にたくさん起きるのです。推測や伝聞でなく日本国内でいま起きている誰もが確認できる現実です。
では、海外から輸入するその「製品」が、設計や工場での生産、輸送、管理の際に「まちがい」が起きるか、起きないか、普通に考えればわかることだと思います。
だから、国内で独自にその製品に対して検証や品質チェック、それがなんなのか、安全なのか「なかみをたしかめる」というのは本当にあたりまえのことだと思いますが、それが現状ではなされていないことが、最初に紹介した対談ライブ配信で語られています。
子供に接種させるモノの外国製造品のなかみを、日本のおとながその正体や安全を確めてあげないなどということが、はたしてゆるされることでしょうか?

 

我那覇真子と宮沢孝幸 公衆衛生問題について のライブ放送】
非常にわかりやすいまじめな内容。正誤の判断のまえに、真剣に取り組んでいる人のさまざまな意見を自分自身で視聴して、自分の頭で考える
 動画配信サイト Rumble でも同じ動画が視聴できます

 

2023年1月7日 追記:★

これまで3年間「葬儀の時の遺体からの隔離」が行われていましたが、2023年1月6日に政府ガイドラインが発表され「葬儀の時に遺体と対面やつきそい可能」になりました。

 加藤大臣会見概要 |令和5年1月6日|大臣記者会見|厚生労働省

考えてみる:

 冷静に論理的に考えてみて。
「呼吸せず、動かず、棺に入った遺体」と葬儀で接する安全性を判断するのに3年かかる、というのはどういうことなのか?
非常に慎重です。
そうであるならば、
生きている人間、子供や幼児、赤ちゃん、その体内血中に注射する物の安全性を評価確認するのには、何年かけるのが適切で妥当なのでしょうか?

なぜ?
どちらも「日本国民の命をまもる」という目的であれば完全に事の重大さは等価なのに、
なぜ、一方向のことだけが「慎重」で、
なぜもう一方のことで死亡者がでたり副反応がでたりすることだけが「仕方がない」「運が悪かった」で済まされる、済まそうとするのか?

人々のなかには「副反応は仕方がない」という意見をとても簡単に述べる人もいます。
そうでしょうか?
副反応の情報を集めて、分析、検証、やり方や「製品」自体の改善に取り組むことで、たとえば必ず10人は発生してしまうかもしれない副反応を、9人、8人と、すこしづつでも減らしていこうとする努力は考えられないでしょうか?
また、不幸な結果になってしまった事態の情報を、正直にきちんと集めて公表することで、日本国民がどういう健康状態・身体的特徴・既往症・持病であれば「接種」を避けたりずらしたりするほうがよいかなど、各個人が判断決断するのに非常に参考になる有用な「知見」が蓄積できるはずだと考えられます。
 医療従事者でなくても、さまざまな実例情報が蓄積されることで、接種時には万一の場合に備えて「エピペン」や「AED」が使用できるようにそばについていたり、接種後にどのくらいの時間そばに第三者が付き添ったらよいか(もしものことがあれば救急車が呼べる、浴槽に浸かって溺れる危険性があれば様子を見守れる)など、現場で命を救う、救える確率をあげる知識を身につけられます。

この三年のあいだ、大手マスメディア、地上波のテレビ、新聞、は、
いくらなんでも極端すぎるほど極端に、一方側に偏った(かたよった)
「あおり」のような 放送、報道、をしつづけてきたように、私は思います。
この記事をお読みの あなた は、どう思いますか?

(※私の知る限り、名古屋のCBCテレビは例外的な存在だと思います。それでも目立ちだしたのは東京オリンピック終了後くらいから? ほかにも、私が知らないだけで、地方のテレビ局や新聞社でバランスのとれた信念をもった報道を続けている所もあるかもしれません。)
追記:サンテレビ兵庫県)も報道をはじめています


★重要★
ただし、

日本国内で、大人同士がもめたり、対立や不信感をエスカレートさせて分断されたり、国力や日本の世界的評判をさげることは、結局、競争相手である外国を利するだけのことになります。
こどもたちも、心配になったり、未来に希望や夢が抱けなくなったり、日本という国や将来に自信がもてなくなってしまっては、いけません!
そのことを忘れずにいつも頭のなかに置いて、
公の場では、常に、こどもたちのお手本になる「誇りがもてる」振る舞いを大人たち皆でみせていくことがとてもだいじだと、私はかんがえています。
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疑問:なぜ?

なぜ「専門家(?)」は、

・「脅威」自体を無効化や不活化するための発明や発見を自分自身でしないのか?

・なぜ、専門家はこれほどまで長い期間、国民にとって「時間・費用・手間・健康リスク」負担が大きい対策を常に是として、肯定してきているのか?

 たとえば、普通に考えて、水道水の「トリハロメタン」を除去するために日本国民全員の体内に定期的にフィルターや防御する何かを埋め込むなんて膨大な負担が生じる発想、施策をするべきかどうか?

・100年まえから存在している「マスク」について語るだけなら専門家でなくてもできるのでないか?

・なぜ、昔の外国の研究や論文をとりあげることばかりして、日本国内の今現在の「日本人」独自のデータ蓄積や研究を積極的にすすめないのか?
 病気には「(ほぼ)黒人しかかからない病気」なども存在する(例:鎌状赤血球症)


・なぜ、マスクを語るのに、病院で把握できる人間(来院、入院中)以外の、今現在日本国内でマスクをして町の中を歩いている人、電車のなかの人、会社や町や店のなかでマスクをしている人のマスクの表面、裏面にどんなウイルス・細菌がどれくらい付着しているか定期サンプリング計測しないのか? それを一覧にして公開しないのか? 定期観測してその変化を公表するほうが、散発的に下水のなかを調査するよりよいのではないか?

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★2023年2月現在の【日本の公式指針】

文部科学省
 2023年4月から学校では、教育活動では原則として着用を求めない。体育を含めた授業全般や合唱、運動部の活動などでも着用を求めない。着脱を無理強いしない。
 2月10日、首相から「児童・生徒と教職員はマスクを着用しないことを基本」「着脱を無理強いすることないよう求めたい」との表明がありました

追記:
マスク着用 “3月13日からは個人の判断で”政府が決定。加藤厚生労働大臣の記者会見をあり (※これまでも日本国内では法律でマスクを強制されることはありませんでしたが、実際の現場では実態としてほぼ強制といえる状況でした。特に屋内では。)

厚生労働省
 2023年5月から感染症法上の位置づけを「5類」へ

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疑問:なぜ?
なぜ、「政府専門家」は、マスクの安全性や有効性を検討するために、
きょう現在、日本国内でマスクをつけて歩いている人のマスクを集めて、定期的に、そのマスクの表面や裏面に、どんなウイルス、どんな細菌が、どれくらい付着しているかをサンプリング計測しないのか?
・マスクは何分間つけていて清潔なのか?
・自分や他者が飛沫でよごしたマスクを食品店や飲食店に持ち込んで安全なのか?
わからないままでよいのか?

★「政府専門家」2023年2月8日発表
 マスク着用の有効性に関する科学的知見

 ↑ 疑問:
 なぜ、専門家本人自身の名前による直近の研究や計測レポートでなく、ふるい、外国の話を今するのか? 最新直近の、日本の「知見」を公開しないと意味がなく、逆になぜ海外を倣うのに海外と異なる施策やタイミングなのかという矛盾が、一般国民にはよくわからないのではないか?
 「マスクの種類」
 「マスクを何分間着用つづけて衛生的に安全なのか」
 というもっとも基本的な根拠も一切言及がなく、はたしてこれは「科学」とか「知見」とかいう表現をつかってよい発表なのか疑問。
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2022年12月時点の【日本の公式指針】

↓「屋外のマスク着用不要」政府公式指針は、2022年5月から

文部科学省からあらためて「学校の給食、昼食時に『黙食』はもとめていない」との周知連絡がでています

 文部科学省公式サイト:令和4年11月29日 新着情報

最新、きょういま現在の政府・省庁公式サイトをじぶんの目でたしかめてみるのが大切です。
マスクの着用について|厚生労働省

マスクの着用に関するリーフレットについて(更なる周知のお願い)(令和4年10月19日:文部科学省

アメリCBSテレビで放送されていた『60ミニッツ』も、マイケル・ムーアの映画も、ある社会問題について発信するときは、両方の側の意見や取材や論文や主張、その二つを並べて視聴者に提示する、それが「報道」のスタイルでした。
今現在は、なぜか、一方側の情報だけを報じている「宣伝」を「報道」のように偽ることが多く見受けられます

2022年11月11日 追記:
★★★
疑問 かんがえてみる:
ここ3年間におきた公衆衛生の問題のそもそも の最初の「原因」をつくりだした「国」または「当事者」に対して、責任を追及したり、賠償請求を起こそうという話がでてこないのは、なぜ? どうしてだと思いますか?
2023年2月16日 追記:

 ◆WHOが実施予定だった起源調査の第2フェーズを放棄 - GIGAZINE

 ◆「答え見つかるまで追究」 WHO事務局長

・「研究所由来」米エネルギー省が結論―報道(時事通信
・Lab Leak Most Likely Origin of , Energy Department Now Says(WSJ
・起源、研究所から流出の可能性高い=米エネルギー省(WSJ日本)
・米エネルギー省「中国研究所から流出」米報道(日本経済新聞
・中国研究所から流出「最も可能性大」 FBI長官(AFP)
★★★

2022年10月30日 追記:
・きのう10/29に東京・田園都市線に午後のすいてる時間に乗ったときは、車内の外国人旅行者風カップルと数人のひとは「マスク無し」でした。

私は、自分のアタマでかんがえて自分自身の考えや判断をもつことが大切だと考えていますが、それと同時に、「世間・実社会・他者との協調・調整」もだいじだと考えるほうなので、2022年10月現在も、乗り物や店内はマスク着用をしています。

・2022年10月現在、自分の知る限り「欧米」ではマスクしていない人のほうが断然多いと思います。
が、「欧米」は広くて、町も国も色々あるので、現地に知り合いがいれば直接きいてみたり、スポーツ中継の観戦席(サッカーのワールドカップメジャーリーグ中継)をみたり、リアルタイムの現地ライブカメラをみたり、SNSで直接その国の人の話や写真を確認してみるとよいかもしれません。

2022年10月 追記:
2022年9月に三重県でマスクを外した子供が大人から殴られる事件がありました。
「暑くてマスク外した」小学男児の左頬を殴る…男が因縁つけたか : 読売新聞オンライン
私は、自分自身を含むおとなの責任をかんじました。
そして、自分の住む、東京都世田谷区の区長あてにツイッターで要望も伝えました。

『調査提案:世田谷区内でマスク着用して歩いている区民のマスクに細菌やウイルスがどれくらい存在するか電子顕微鏡他で実際に調査してマスク着用の公衆衛生上の有効性を独自に正直に検証再検討することはできないか?』#世田谷区 #マスク #公衆衛生

マスクをめぐるトラブルは、被害者が死亡する事件も含め、全国で相当な数にのぼっています。

考えてみる。自分自身のあたまで

「きれいにみえても細菌やウイルスがいっぱい」という洗剤商品のテレビCMは誰もが見たことがあると思います。
スマートフォンのタッチ画面は科学的衛生学的にはトイレの便座より汚い」という記事も話題になりました。

自分が着けているマスク。

生温かくて、呼気による湿気がこもっていて、着けつづけていれば 新品開封しておろしたての時とニオイも変わっているのは、着けている自分自身が本当のところを一番よくわかっているはずです。

飛沫や唾液や鼻水や呼気が、危険で恐れるべき不潔なモノなのだとしたら、
それを長時間、生温かい湿った場所に充満させ溜めておいて、
それを、口や鼻、という呼吸器に直接つながる入り口、そして眼や顔の肌のまじかに常に配置しておくことは、衛生的に、病気予防の観点で、よいことなのかどうか?

そのマスクを飲食店、レストランのテーブルやカウンター、食べ物を販売しているお店のなかへ持ち込むことは衛生によいことなのかどうか?

そこについて溜まった細菌やウイルスはさいごはどうなるのか?
つけていないときとの差はどうなのか?

町の中でマスクをしている人の多くが、外出中の素手の指でマスクを触ります。
指を消毒してからマスクを触る人を、私は屋外では一人も目撃したことがありません。

マスクには表面と裏面がありますが、細菌やウイルスは小さいので常に通り抜けます。

また、保健所や公衆衛生当局から常々出されている「食中毒予防には雑菌を繁殖させない増やさない」という注意喚起との矛盾や不整合をどう理解すればよいのか?

マスクと、テーブルの上の台拭き(ふきん、ダスター)の「汚さ」は同等ではないのか?

私は町のなかでクシャミをする時だけマスクをはずす人を何回も見たことがあります。

◆マスクの有効性の根拠を語るとき常に「新品の清潔なマスク」を基準にしてないか?

無菌で清潔な新品のマスクがあったとして、その清潔な状態はいつまでもつのでしょうか?
マスクをつけたりはずしたりするのは、さまざまなモノに触っている指で行います。
雑菌のいるポケットのなかにいれたり、ビニール袋やハンカチやマスクケース(?)に入れたり、アゴや片耳につけたり、腕やバッグにぶらさげてマスクを持ち運んでいるひとも時々見かけます。

◆3年前以前になぜ専門家や研究者はマスクを昨今のように強い推奨しなかったのか?

マスクはつい最近になって発明されたわけではありません。

人間が死にいたってしまう細菌やウイルスを原因とした病気はさまざまあります。
もちろん「インフルエンザ」も三年まえより以前から存在します。

なぜ、一般の人より「頭が良い」「給料も高い」税金によって特別な施設や設備や待遇を整えてもらって、専従で「研究」をさせてもらっている公衆衛生の「研究者」や「専門家」は、三年前以前は、マスクを強く国民全員に推奨しなかったのでしょうか?

もし、マスクという製品に、死にいたる感染症の予防効果が本当にあるのならば、
三年前以前にインフルエンザで死亡した人たちの責任の一端は、マスクを推奨しなかった専門家にある(不作為の責任)ということになります。
(マスクをつける指導がなされなかったため死亡した家族から賠償請求訴訟された時に責任を負えますか?)

また、この数年間、マスメディアなどに登場する「専門家(?)」「研究者(?)」は、「こわいです。恐ろしいです」という話をあおるばかりで、国民が期待して相応の予算や待遇も与えているのに、「こわいモノ(病気)をこわくないモノに変える使命。事前に備え準備をして防ぎ あらたな病気や脅威から日本国民をまもる使命。そして、真相を一般のひとにわかるように誠実に説明して安心してもらう」という本来期待されていた研究者・専門家の役割をまったく果たしていないと私は思います。
高給で警備員を雇って、門のまえの立たせておいたら、「なんかコワイのが来ましたよ、あぶないですよ、気をつけてくださいね」と言いながら立っているだけでなにもしなかったら、その人物の存在価値をどう思いますか?

◆医療の常識は変化する

むかしは歯の治療に水銀を使っていました。いまは使いません。
転んでヒザをすりむいて血が出たら、むかしはアカチンや、ヨードチンキをぬったり、マキロンをかけたりしていましたが、いまは水で流してそのままにしておきます。(※より正しくは「湿潤療法」参照)

ごく身近にあたりまえに行われてきた治療や医療行為も時代とともに常識が変わります。
だからこそ、科学的な専門家による常に議論や検討や見直し、アップデートが必要なのではないでしょうか?
公衆衛生に関して、「議論をしない」「一度決めたことを変えない」ということは医療や科学の進歩や向上の妨げにしかならないし怠慢だと思います。
当然のことですが、この議論は専門家による「無私」によるもので「金儲け」や「政治的な都合」「外国の干渉」などに歪められて、日本国民がわずかであっても損をしたり犠牲になってよいはずがありません。
日本の科学者、医学者、専門家、はまず第一に日本人の健康や身体の安全を考えて行動をしなくてはなりません。この人たちを養っているのは日本国民の税金であり保険料です。
ちなみに、私はインターネット上で、命のかかった真剣な医療の話題について、ふざけたウソのアイコン画像や、ウソの名前で「専門家」や「医者」を自称しているアカウントは「迷惑メール」とおなじ存在だと思っています。対応も「迷惑メール」と同じ扱いをしています。
あと、
「治験」というのは通常、治験される側が高額な報酬を受け取って行われるものです。(もしくは治療可能なクスリがない深刻な病気の本人が未認可の新薬を強く希望して行われるもの。) 治験される側が開発費用に匹敵する巨額費用を負担するという話がかつてあったでしょうか?

 

私自身は、マスクを否定する意見、も、マスクを肯定する意見も、どちらも確固たるものとして持っていません

 科学的な事実を調べ、追究し、知り、それをもって行政や社会の公衆衛生対策を講じていくのが大人の責任だと考えています。
専門家でなくても、社会を構成する一人の人間として、行政や政治、世の中におかしいところがあれば「それはおかしいんじゃないか?」声をあげて、放置せず問題を指摘したり、調査確認を望んだり、改善や向上、進歩につながるための行動をすることが、おとなの責任だと思います。

病気にはさまざまな種類があり、公衆衛生対策はひとつのなにかに特化して取り組むものでなく総合的な判断が必要なはずだと考えます。日本国民も一人ひとり個別の身体的特徴をもっています。
さらに「QOL」や個人の幸福の選択権の問題もあると思います(例:10万円あったとしてそれでクスリや予防薬を購入するのか 鮨とステーキを食べるのか決める自由。)

私はけっして、「反」なんとかとか、硬直した考えや意見は持っていなくて、実際、「マスク不足」が起きていた頃には、住んでいる近所の駅前で自分でさがして購入してきたマスクを無料で配っていたくらいです。(※このマスク配布の目的は、お金持ちの子供だけが品薄のマスクが入手できて、そうでない子供が教室のなかでマスクが無いという思いをしてほしくないというのが理由)
飛行機のなかでのマスク着用問題で議論が紛糾したころには、「もっと穏当な話し合いかたや協調のしかたがあるのでは。」という意見をブログで書いたこともありました。


私は、これまでマスク議論はあえてしてきませんでしたが、子供が殴られるというニュースに接して、あらためて、おとなが意見を表明していかなくてはいけないのではないか。なにも得はなくて、損しかなくて、手間と時間がかかるだけ、よけいなやっかいごとや、うるさがられたり、攻撃の対象になったり、余計な敵をつくることになったりしても、やはり、見過ごせないと思いました。

調べ続けるのがだいじ。答えを固定化しないで。
肯定する意見や情報、映像のなかにウソやまちがいや作り物があるかもしれません。
否定する意見や情報、映像のなかにウソやまちがいや作り物があるかもしれません。

だからこそ、ていねいに考える。観察する。結論に飛びついたり、思い込みをしないで、時間もかけて、その情報の発言者、発信者が、信頼できるかどうかよく見極める。

議論の目的はだれかを「論破」することでも「勝ち負け」でもない。ひとりひとりが正直に、科学的(合理的)に。

この公衆衛生の話は、日本人の命がかかった真剣で深刻な問題です。
日本人同士が先鋭的にケンカしたり争ったりして、解決や日本のためになるかどうか。
遊び感覚で公のネット上で「ディベート」したり、集客やお金儲け、広告表示収入をめざした「炎上目的」でこの話題を扱うことなど許されることかどうか。ひとりひとりが自分自身の心にきいて判断してください。そんなことをして本当によいのかどうか。


この記事では、話をシンプルにしたかったので、論文や政府公式発表やデータなどの引用などしていませんが、私なりに、三年まえから海外の英語科学論文に目を通したり、政府・管轄官庁の公式発表や通知も常時確認しています。興味がある場合は、私の外部個人ブログ記事を参照ください。
私は、外国のデータを見るときは、

・そのデータが本物かどうか?
・そのデータが一部分を切り出したり付帯注記や記述を削除加工されていないか?
・そのデータの出典元の個人や組織が信用できるか?
・複数の専門知識と情報発信に信用度のある人の類似意見や反対意見も参照してから。
・継続的に観察をつづけて、アップデート、修正情報や間違いや取り消しがあったかどうかも把握する必要がある 
・民族や遺伝子、生活環境、食生活、身体的特徴が異なる外国のデータをそのまま日本や日本人に適用することが妥当か?
なども考えるのがまじめな取り組みだと思います。
自分自身がそのデータ内容を十分理解や消化していないまま、他者や多数のひとに広める場合は、十分慎重な注意と配慮が必要だと思います。

公衆衛生・感染症の専門家の方へ – 世田谷区の「交通安全・みまもり・ゴミ拾い」じゅんちゃんおじさん

マスク – 世田谷区の「交通安全・みまもり・ゴミ拾い」じゅんちゃんおじさん

子供の発育への影響や、熱中症リスクについても情報収集しています。

私は自分の意見をだれかに認めてもらおうとか、賛同してほしい、ということではなくて、
「やはり社会の一員であるおとな、個人が、たとえ損をしても、心のそこから自分が思っている意見を表明することがだいじではないか」
という思いで、この記事を書いています。

たとえそれぞれの意見が異なっていても、みんなの本心の総和で、よりよい社会、日本をつくっていきましょう。
つぎの世代のこどもたち、孫たちのために。


私は、だれでも自分の意志でマスクをつける自由もあると考えています。
つけない自由とおなじように。
私自身、20年くらい前から、飛行機に乗るときはかならずマスクを着ける習慣がありますし今後も変わらないと思います。
ちなみに、3年前以前のアメリカでは、病院以外の場所でマスクを着けていると、人によっては極端に警戒されたり、いやがられたり、からかわれたりすることがあるのがアメリカ国内の常識でした。(実際に飛行機内、空港、タクシー、ホテルロビー、カジノのなかで体験したことがあります。)


付記:
この記事には書ききれていない この三年間の公衆衛生問題に関わる「不合理」「矛盾」は、このほかにもたくさんあります。国内にも、国外にも。


・死因判定の正確さへの疑義。
 「付着した物質」だけをもって死因判定をしていないか?
 統計のなかにあやふやな精度のデータが混ざっていないか?
 「自然死」「老衰(平均寿命以上の死)」「交通事故死」など別にすべき死因を混ぜてカウントしていないか?
・検査方法が不適切なのではないか? 検査方法を発明した人自身がそれを指摘。
 検査が科学的厳密さのない環境で行われている問題。偽陽性の問題。


そしてさらにおかしなことに、
その不合理や矛盾の当事者のほうが威張っていたり、居丈高だったりする場面がこの三年間あちこちで見かける機会がありました。
あなたはどう思われますか?


そのほか:

 上記ツイートの補足
 

上記の情報について、私個人の意見:

歴史的にみても、日本にとって「外国」というものは何をするかわからないので、
日本人の「専門家」は、「日本国民、日本のこどもたちをまもるために」逆に、ここで言及(批判)されているような先行研究や防衛のための「備え」を「日本のために」行っておくべき、行っておいて欲しかった、という気持ちです。
もちろん己の「お金儲け」のためではなく。



改訂:
2023年1月 文章全体の細部を修正して整えました。参考情報リンクは適宜追加しています。
2023年2~3月ところどころ追記しました。

私、すずきじゅんじ(東京都世田谷区在住) は、どの政治政党にも、どの宗教団体にも所属していません。
じぶんのからだを使った毎日の社会奉仕活動や、社会問題に対する意見発信で、
企業、個人、どこからも報酬やお金を受け取ったことがありません。
公費税金からの報酬、財団からの報酬、団体、個人からの寄付、一切受け取っていません。
ネットに記事を書いてお金を受け取る仕事も一度もしたことがありません。

※インターネット上の匿名の発信は、作りモノの虚構(フェイク)映像でないか? 作為ある切り抜き、ウソの音声や編集加工、誤翻訳がないか? 本物であっても日時が最新かふるいか? など、自分自身で確認する(信憑性を確かめる)ことが大切です。
自分のいま信じている意見とおなじとか近いから「正しい」と思い込んだりしないで。
自分とは逆の意見だから「ニセモノ情報だ!」と断定したりしないで。
自分の感情はひとまずよこにおいて、冷静に考える。

↓(※広告が表示される場合は、ブログサービス提供会社が自動的に挿入表示しているモノです)

国産SNSを新しく国策でつくるとなにが良いか?(3月19日更新

最終更新:2023年 3月19日 10:00

2023/3/18 はてなブックマークエントリーで話題がでていたので、

いま、1分くらいで思いつきを書き出してみました。(あとで追記や整理するかも。)

私は、国産SNSを国策として整備することは、良いことのような気がします

これまでの既存の「SNS」という考えかたでなく、「国民・情報インフラ」として考える。

【あたらしく国産SNSを国策でつくる利点】

① 日本国民が決定権を持つことができる

 ・不法行為があれば日本の法律で取り締まることができる
 ・違法行為に対して日本人が日本で裁判を起こすことができる

 ・理不尽なことがあれば、日本国民が日本政府に働きかけることができる
 ・日本人が、選挙の投票行動や関係企業や関係担当者に影響力を行使できる 

 ・市区町村、都道府県、国、
 ・役所、税務署、保険事務所、保健所、社会福祉事務所、年金、国勢調査、給付金
  学校からのお知らせに活用できる。
  膨大な手紙類をなくすことができる
  その製作費用、郵便代金、発送手数料、中間人材派遣費用をなくすことができる。
  選挙のお知らせ、広報。
  →その毎年全国でかかる膨大な費用だけでもSNS整備予算がまかなえる(はず)

 ・「おしらせ」手紙を受け取った側の記憶忘れや、手紙書類の紛失・再発行を防げる。

 ・町内会、自治会、NHKNPO、保育園、幼稚園、図書館、デイケア、病院予約連絡にも活用

 ・日本の今後世代の、記録がのこる電話とメールの「統合代替技術」

 ・詐欺や犯罪の防止にもなる。みまもり、警察、消防、行政へのSOS連絡にも活用
 
 ・罰則などの新しい法律も必要

 ・裁判の通知、交通違反や行政罰の連絡。官報や各種登記の紐付け信用紐付け

 ・公的な通知連絡のスピードが格段に向上する

 ・10年先以降を考えた整備。IT機器に不慣れなひとはだんだんすくなくなる。問い合わせやサポート対応が減れば、丁寧な手伝いや説明がひとのほうに人手がさける

・紙媒体は文字がよみずらい人もいる。それが個別に調整できる
 ・文字サイズの拡大
 ・色合いがみえにくい
 ・読み上げ音声機能(ゆっくりおおきなこえで)
 ・ふりがな機能、言葉単語説明機能、用語を絵でも解説注釈
 ・説明文面を理解度にあわせてかみくだいた段階の種類も用意できる

・まちがいや修正、追加情報を適切に継続的にしらせていくことができる
・急な変更や通知も可能

 ・純国産SNSを持つことで、さらに国内民間企業や外国製SNSとの切磋琢磨、健全な競争が促進される。 すでに力をもっている巨大SNSがもし仮に、暴走や理不尽な値上げ、不誠実な運営、個人情報の外国への販売や流出をさせることへのけん制や抑止にも力を発揮する

 ・市、県、国、のレイヤーを統合して一元化。統一プラットフォームでわかりやすくレベル分け

 ・国内雇用の創出
 ・突然の一方的な整理解雇や不法な労働強制やパワハラなどにも外国企業に対しては対抗手段が無い。

 ・国民の全データを常に外国に分析されるリスク。国家間交渉への影響。不利益。

 ・年間使用料として莫大な金額を毎年外国へ支出する必要がなくなる
  たとえば、日本は国や地方自治体あわせて年間いくらスイートアプリにお金を払っているか?
 ・特許使用料を払う必要性

 ・国内でSNSを開発し、運用をつづけることで、その技術やノウハウが育ち、蓄積され、国内IT人材の能力が向上する

 ・SNSの運営に不法行為やひどい行いがあっても実際問題として外国のサーバを捜査、調査して証拠を見つけることは現実には不可能。
 アップデートの名のもとにいくらでも証拠隠滅やデータ改ざんできる。
 その他、脆弱性、意図せぬ誤動作、オープンソース側の不具合、担当者がもう辞めているのでわからない、などいくらでも言い逃れが可能。
 法律も最新の技術問題に追いついて法整備されていない。

 ・国防観点

junji-suzuki.hatenablog.jp




自分のしていることを説明する、こともたまには必要か?(更新2023年2月8日)

私(すずきじゅんじ)は、とくに政治的な人間ではないし、特定の支持政党(党派性?)もありません。
いわゆる、「左」でもないし、「右」でもありません。

いわゆる「公費税金」からお金や仕事、補助金などをもらったりしていません。
(むかし、財団経由で「すずきさんの社会奉仕活動に対してお金を出したい」と言って頂いた経験はありますが、お断りして辞退したことはあります。)
どこからも、政治的なお金やNPO的な活動の補助金助成金なども受け取ったことがありません。

 

インターネットの俗語で「嫌儲(けんもう)」という言葉がありますが、
私は、儲けることは普通は良いことだろうと思っています。
価値を生み出し、ひとにほめられたり、よろこばれたりするものを作る。
ずるいことをしないで、儲ける」ことがだいじだと思っています。

 

私は、この「はてなブログ」や「はてなブックマーク、コメント」で
これまで二つの話題について、こだわりを持ち、繰り返し言及することがありました。


公衆衛生について

個人情報について

 

ずるいことをしているほうが威張っている、えらそうである。
そういう現状をすこしでも変えたい、
社会をゆがめないために。
逆側の意見をあげて、適切な世の中のバランスをとっていきたい、
そんなふうに考えています。

 

ネット上では、「反○○」という言葉を簡単につかう人もいますが、
わたしはそれは丁寧ではない雑で怠惰な物言いだと思います。

それでもあえてその言い方にあてはめてみると、私は
「反・ずるいことをして威張っている者」
とはいえるかもしれません。

 

生きるということは「清濁併せ呑む」こと、とも言えると思います。

人生のなかで、お金をかせぐ「仕事」をするなかで、
「ちょっとこれはずるいな」と自分自身で思いながらも、それをしなくてはならない状況があると思います。
私はそういうことをことさら責めたり、批判したりはしません。

それぞれの当事者が、ひとりの人間としてその場その場で自分自身で決めて行動すればよい、
そう思います。

前述の二つのテーマについて、なぜこだわるのか?

それは、巨大な「弱い者いじめ」だからです。

反撃、反論できない「こども」「(それについて知識のない)弱者」に対する一方的な見過ごせない「ずる」「だます」、暴力だと思うからです。
その暴力の目的が「金儲け」であり、普段から「おれは頭がいい、優秀な人間なんだ」
と自慢したり威張っているひとびとによる、デタラメな説明を用いた詐欺や暴力。

例えば もし、あなたが、どうしても仕方がない状況に陥って、どこかの家に「強盗」に入らなければならなくなったとします。
どうしてもお金が必要だったとして、じゃあ、その家のなかに子供や赤ちゃんがいたら、その子たちに対して攻撃を加えますか?

例えば もし、どうしても仕方がない状況に陥って、戦争が起きたとします。
もし、なにもわるいことをしていない、反撃も防御もできない子供や赤ちゃんしか住んでいない村にバクダンを落としてこいと命令されたとしたら、あなたは、どうしますか?


「お金はだれしもほしい。だけど、いくらなんでもそこまでひどいこと、非道なことは、やめておこうよな」
という社会的合意、世の中の共通認識は、どうしてもゆずれない、線をこえてはいけないだいじなモノ = 「倫理」 「秩序」
ではないでしょうか?
こどもや女性が町をひとりで歩けるためにも。
夜、家の中で安心して寝ることができるためにも。


私は、どんなに自分個人が損をしても、この二つについては話し続けようと思います。
自分の心の底の声をなんどたしかめてみても、
「これはじぶんが言わなきゃいけないこと」
「言えるひと(自分)が言えるとき(今)に言わなくてはいけないこと」
だと思えるのです。

 

すこしでも今後、同様なおかしなことが抑制されたり、
これらの「おかしな行為」の当事者や当事者企業の内部にいる者や、利害関係当事者(ステークホルダ)の「良心派」「良識派」や、関係者ひとりひとりの心の中にある「良心」「善性」「仏性」「善なる魂」に刺激や追い風をもたらすために。

 

社会はすべてつながっている、と私は、考えています。

いまの社会のなかに「歪み」や「不健全」が存在するならば、その責任の一端は
社会の当事者である自分自身にまちがいなくある、そう私は、考えています。
それまでしてきたことの責任。それまでなにもしてこなかった責任。


毎日、自分ができることをひとつづつ積み重ねてやっていきます。
からだがうごき、頭や手足がうごく、いまできることを。

 

 

 

自分の頭をつかってかんがえてみる練習(データや根拠なしでも。)


・人間は生まれたらいつかは必ず亡くなるなあ。

・たぶん0歳で生まれて100歳までのあいだには必ず亡くなるなあ。

・日本の人口はぜんぶで1億人くらいかなあ。

・毎年 赤ちゃんが生まれてくるし、毎年 年寄りが亡くなる。
 いちおう、平和で健康で寿命まで生きられたとして、
 100歳になったらかならず順送りで亡くなるとすると、
 100歳のひとの人数は「 1億 ÷ 100 」だから100万人くらい?

・ということは、毎年100万人くらいの人が亡くなって、毎年100万人が生まれてくるのは、いまの日本では自然なことなのかな。

・じゃあ、100万人を365日で割ると、2739人。
 日本で毎日、2739人の人間が亡くなるのは、正常で自然なことかなあ。

・ためしに、都道府県の数 47 で割り算してみると、58人。
 ひとつの県内で、毎日58人の人間が亡くなることは、普通のことなのかな。
 (あ、東京都と鳥取県では人口が25倍ちがうときいたことあるな。)


・いまの日本で「毎年100万人が亡くなるのはあたりまえのこと」
 という概算はなにか感覚の目安になるかな。
 データや根拠に接するときも、大きなケタ数の間違いをしないようになるかも。
 あたらしく生まれてくる赤ちゃんの数をかんがえるときの目安にもなるかな。
 

・まあ、ここまでは自分のあたまで「ソラ」でおおざっぱに考えてみたこと(概観、概算)だから、
 一応この感覚もふまえて、さて、いろいろ調べてみようかな。


 ↑ ↓


◆ データ、集計、論文、公式発表、専門家、の「信頼性」がいろいろと言われてる現在です。
 その記録や証拠すら、途中で編集や変更されたり、無くなったり改竄や廃棄されてしまうこともあるそうです。
  

 一般のひとが「ネット検索」をつかってそこに出てきて、目にすることのできる「情報」は、世の中にある情報のほんの一部です。
 また、その情報はまちがっていたり、だれかが意図的に作成したり、見つけやすい場所に置いたものかもしれません。
 お金儲け目的や、だれかにお金をもらって、言ったり書いたりしている情報かもしれません。


 根拠(ソース)やデータをインターネットやテレビ、マスメディアなどの利益追求団体や、他者、個人にお手軽に求めたり与えてもらうだけでなく、
 自分自身のあたまをつかって、これまで自分自身が人生で体験してきた確かさのある「糧」もうまく活用して、
 ものごとを、洞察したり、考察してみることも たいせつなことだと思います。

この記事のさいしょの部分を読んで、「人口ピラミッドの図」「日本人死亡原因の表」や、「そんな単純じゃない」「え、それはおかしい」といういろんな「ツッコミ」が浮かんだひともいると思います。


だれかの言っていることは、「そのときその人はそう言っていた(書いていた)」というだけのことで、なにかを証明しているわけではありません。

根拠や証拠を自分でしらべたり、比較したり、国の内外からみたり、総合的に統合して確認するのもだいじ。

それと同時に『自分のあたまでも考えてみる』

事象や問題、その対象に目を近づけすぎても見えなくなることがあります。

世の中には、ウソをついたりお金儲けのためにいいかげんなことを言ったりやったりする人がいるか いないか?

社会はすべて つながっていると、わたしは思います。 


(※ とりあえず書いたので公開します。あとで推敲と修正するかも。)

「一日の死亡者数」「出生数」「人口分布」「都道府県別人口」などの言葉をネット検索すればいろいろ出てくるはずです。
なんでも出てきたものを鵜呑みにするのと、自分の頭で全体を考えて「あたりをつけた」上でそれをみるのとでは、だいぶ「視力」がちがってくるのではないでしょうか。
双眼鏡で観察するときピントがあってよく見えるときのように。


社会はつながっている(美竹公園の話)

美竹公園の最新情報を知りたい方:

のじれん

https://twitter.com/shibuyanojiren

ねる会議

https://twitter.com/nerukaigi


追記まえの私のブックマークコメント

10月26日朝8:30に美竹公園にいる人たちと渋谷区との話し合いが行われるそうです。 https://twitter.com/shibuyanojiren/status/1584934566531588102 注目が集まれば、行き過ぎの暴力、横暴、理不尽が抑制された話し合いができると思います

 

社会はみんなつながっている:


私は、この話題について、ホームレス状態の人を批判も擁護もしません。

そこにいる人間ひとりづつに話をきいて調べなければ安易なことは言えないという考えです。

ただ、現状について多くの人が知り、注目や監視の目が集まれば、

世間全体から非難されるような「暴力行為」「極端な理不尽」などが発生することを
抑制やけん制できるのではないかと思いました。

なぜ私は、この問題について語るのか?

それは『社会はつながっている』と思うからです。

このエントリーのブックマークコメントをみると、架空の名前、架空のアイコン画像ほど、言葉づかいが乱暴になっているのがわかります。

まじめな社会問題についての意見を、自分が心の底からそう思うなら、
自分の名前、自分の顔で、公にモノを言うのにふさわしい言葉づかいで意見を言ったらいい。

どんなに意見がヒトと異なっていてもそれはかまわない。
それが現実世界、社会での話し合いであり、話し合うことで、協調や調整し、よりよい安定状態をつくっていける。

顔と名前をつけるとなると、その途端、もう一段深く、一歩すすんで丁寧に考えるようになります。

顔を出さないで乱暴な意見を言うことと、この美竹公園の問題も「つながっている」
と私は考えています。

 

箇条書き:

ふだんこういう個別の具体的な話やエピソードをなるべく語らないようにしてますがすこしだけ。


・私は、東京にあるホームレス状態のひとがあつまる場所の大きなところは全部行ったことがあり、自分の目でみて、そこにいる人と話したことがあります。


・もちろんこの美竹公園にも実際に行ったことがあり、いま活動している代表者の方と一対一で話したこともあります。


・正直に言ってこの美竹公園で活動されてる代表の方は、東京のほかの活動団体と比較すると「尖ったところがある」という印象を持ちましたが、それはそれだけ渋谷の状況が厳しく尖っていた故だと思っています。
行政や警察からだけでなく、一般の人からの暴力などもひどかったときいています。

・この美竹公園の話には歴史があります。もっとその前の宮下パークや、新宿浄化作戦の時代からつながっています。


・宮下パークも、以前の状態の時も現在ビルの屋上に移ってからも実際に行って見て自分でたしかめました。

・私自身、ホームレス状態の人を自分の家に泊めたことも、アパートの世話をしたこともあります。
 こういうことは普段なるべく言わないようにしています。(相手があることであり、相手の尊厳に関わることだから。)
 世の中には、寄付行為をするとき記念写真を必ず撮る人よりも多い数、「よかれ」と思うことをしたら黙っている人が大勢いらっしゃいます。

・私は困窮状態のひとのお葬式を自費で自分の手作業で行ったこともあります。

・私はどこの支援団体にも属していません。個人です。宗教団体や政党にも属していません。

・美竹公園のことだけを語りたいわけでないことを気づいてほしいと思っています。

・このままいくと、世の中全体の治安はどうなっていくのか想像してみる。

・社会に「行き過ぎ」があれば ゆりもどしてバランスをとるうごきがでるのが健全で安全ではないか。

・ベビーカーの話やエスカレーターの話、学校で起きていること、職場で起きていること、車の乱暴な運転の話も、みんな、つながっていると思います。


『社会はつながっている』とわたしは思います

社会がつながっていることについて、若い人などにわかってもらえるように、
それがうまく伝わるやり方も工夫したうえで、時間をかけて、
自分なりに、日本のおとなのひとりとして、社会のなかで、これからも個人で活動をしていきたいと考えています。


若い世代の人がなにか考えるときのヒントや栄養になるものがほんのすこしばかりでも届けられたらいいなという思いで記事を書いています。

社会にいるおとなのだれもボクには教えてくれなかった

いちども世の中のことについてアタシに言ってくれるおとながいなかった

若い人たちからそう言われないように、おとなの自分ができることをしていきたいと思っています。

「おもいやり」や「やさしさ」は、だれが、いつ、どうやっておしえたり、つたえていくものなのか。
私自身、ひとつ上の世代の「おとなたち」から受け取ったものがいくつもあります。
つぎの世代にわたす責任の一端が、じぶんにはあると思っています。

【まじめな話】『高齢者があぶない場所で道路を渡ろうとしたときどうするのがよいか?』

私は、近所のまちのなかで毎日交通安全の活動をしています。

『高齢者があぶない場所で道路を渡ろうとしたときそばにいたらどうするのがよいか?』

はずっと考えて、迷っていることの一つでした。いまも正解はわかりません。

もちろん状況は千差万別です。

私(すずきじゅんじ)は実際どうしているか?

私は、多くの場合、自分がその高齢者をまもるように
(運転者がなるべく早く気づくように。暗い色の服や体の小ささで気づかなかったがないように)
道路上で、車が近づいてくる方向へ向けて手をあげて(手をふって)、
頭をさげて、(←これがだいじ。思いやり運転に対するお礼の気持ちがつたわるように。)
全方向に注意して(別の方向から自転車がとばしてくることもある)
おなじ速度でいっしょに横断します。

横断歩道であっても、左折車、右折車がくる側の横断歩道のはしに立って歩きます。
(前方、後方からくる自転車にも注意しながら。)

まちのなかの住民による交通安全の目的は、常に『いのちをまもること』であって、
誰かに口頭で注意したり、「正義」をおしつけることでも「ききかじりの法律をレクチャーすること」でもありません。
目的は、『いのちをまもること』


この話をして、記事に書くのは、健康で丈夫でそれが安全に遂行できる大人の男のひと
(カラダが大きくて、視力、聴力が良く、ほんとうに危ないときには自分の身をかわせる運動神経があり、もしもケガをしても軽傷ですむ身体能力、回復する体力、接触時にケガを軽減する方法が瞬時に判断できるくらいの人)
に対して、ひとつのやり方を伝える目的で書いていますが、
常に命の危険もついてまわることなので、安易にひとにすすめることはできないし、しません。

私は、交通安全活動をするときは、ヘルメットや、たくさんのぴかぴか光るライト、反射材、を装備して、目立つ色の服を着ています。

そういう格好をしていないときも、おなじような行動をしますが、それが絶対に正しいかは、わかりません。

もしものときには飛びよけて受身をとったり、接触時に足をあげて、セダンタイプの車のボンネットにのる覚悟をもって注意警戒しながら行動しています。

なにが起きても自分の行動の責任を自分でとる覚悟をもって取り組んでいます。
たとえなにか自分がそれで損することが発生したとしても、
地域社会に生きているおとなの男がやるべきことだと考えているから。


私は、大人が交通ルールを守らない場面を目撃しても基本的に声をかけることはありません。
(よく観察して様子を覚えておくようにはしています。事故が起きたときに証言できるように。交通安全の向上にどうやってつなげていけるかあとで考えるために。)


あきらかな、信号無視や、横断禁止場所の場合でも、現役社会人にみえる大人には声をかけません。

相手が高齢者の場合は、かなり気をつかったやわらかい言葉を選んで、声をかけて「ルールではここはこうなっているみたいですけど、ルールのことよりも、いのちがあぶないので、こうしたほうがよさそうかもしれませんね」
的なことを言うことはあります。

が、すでに赤信号を渡りはじめてあぶない状況の場合は、私も一緒に渡ることもあります。
手をあげて左右をすばやく安全確認しながら大きく手を振りながら、まわりのクルマにこちらの存在をできるかぎり知らせながら、その高齢者のよこについて横断する。
あぶない道路上や横断歩道上では立ち止らず、安全な歩道内についてから、話すことがあれば話すようにして。

「すこし先まで歩けば信号機つき横断歩道があるのに」と健康な人には思えても、高齢者にとっては、ほんの少しの遠回りであってもかなり肉体的にキツイことである場合もあります。
また、場所によっては、交通ルール上ではよろしくない横断だけれど、現実問題としてはそこを渡ったほうが安全である場所、というのも街の中には存在します。


相手が子供の場合は、交通ルールをやぶっている場合は声をかけることがあります。

が、とても重要なのは、あぶない状況、あぶない道路上で急に大きな声をかけたり、叱ったり注意したりは絶対しないこと!
こどもは、急に大きな声をかけられると、びっくりして、立ち止まったり、ふりかえってよけい危ない状況になったり、ころんだりします。(しかし緊急な状況によっては大声が必要なときもありえます)

こどもに対して、車に注意することや交通安全の話をしてあげるときは、かならず安全な場所でする。
あいては子供です。目的は「こどもに注意すること」ではなく「こどものいのちをまもること」を大人が忘れない。
子供がキックスケートで歩道をすごいいきおいで疾走したり、スピードを出して自転車を走らせたり、青信号に変わった瞬間にスタートダッシュしたり、つい大声で注意したくなるシーンに出くわします。
道路上はどこでもそうですが、ふざけて急に大きな声を出したり、叫んだりすると、それに驚いてハンドルをとられたり、なにが起きたかみるために首をうごかしてバランスを崩したりして転んだりすることが起きます。たとえ必要性のある場面でも、まわりの状況を総合的に判断して「危険度をあげる行為でないか」「みんなの安全を脅かさないか」を考えましょう。
たとえ自分のほう正しくて自分の側に理がある「交通トラブル」などが発生した場合であっても、当事者間だけでなく、まわりの人達(特に子供や高齢者)を危険にまきこまないかを一旦考慮して、安全な場所へ移動したり、安全な状況を確認してから処理や対応をしましょう。

車のクラクションはやたらと鳴らすと周囲も驚いて危険ですし、罰則(道交法54条)もあります。
過去にはクラクションを鳴らされてあおられ、パニックになって急発進したことが原因で歩道の歩行者をはねる死亡事故が起きることもありました。
ただ、あまりにひどい歩行者の乱横断や赤信号でとびこんでくる自転車に対して注意喚起する意味でクラクションを鳴らすのは、私はしませんが、そうする人がいることで、「怒られて怖かったので、次から気をつけよう」という人もいるかもしれません。(按配が微妙なところだと思います。)

そして、おとな自身が、歩行中も、自転車に乗っている時も、子供のお手本になるふるまいをする。
車を運転中は、自分がいまひとを簡単に死亡事故に遭わせてしまうおそろしい鉄の塊を操作している自覚を持つ。そうすれば、徒歩で人ごみをぎりぎりですりぬけて歩くのとおなじ感覚で、横断歩道を行き交う横断中の人々の群れのなかに、車でつっこんでいくような運転をすることは怖くてできなくなるはずです。

 

私は、
近所のまちのなかで毎日交通安全の活動をしています。毎日いろいろ真剣に考えながら迷いながら活動しています。


【 交通安全・みまもり・ゴミ拾い 】用賀じゅんちゃんおじさん
https://junji.jp/pick-up-litter/



(※推敲せずに公開しているので、あとで修正します)

増田『前から来る人を絶対に避けないとどうなるのか』について

b.hatena.ne.jp

↑こういう話題がでていました。

読んでみて、私は、この文章はまじめな問題提起の気持ちで書かれていると感じました。

インターネット上では「エスカレーターを歩くか否か」も、しばしば論争になっています。

たいせつなのは、自分自身が「どんな社会にしたい?」とかんがえているのか

私は、いつも「社会はすべてつながっている」と思っています。
つよく意識すべきは、その目の前の事象(問題)よりも、その先にある「(私は)どんな社会・世の中にしたいのか?」。
各自ひとりひとりが、自分自身のこころによくきいてみて、ゆっくり考えてみて、
「いろいろ考えてみたけど、現状の先には、やっぱり自分はこういう風な社会になってほしいな」
というその姿を自分のアタマと心でしっかり築くことだと思います。

そこへむけて、
目の前の問題をじっくり観察し、検討し、自分以外のひとたちの見方や意見もきいて、
じゃあ、じぶんののぞむ未来のカタチへ近づけるためにはどういう方法があるだろう?
こんなやりかたをしてみよう、ためしてみよう。
そうやって、実際の日々の行動につながっていくのではないでしょうか。

 

自分はどうしているか?

私は 必ず、自分が 待ったり、ゆずったり、よけたりします。
強いほうがよける、ゆずる、
強いひとが弱いひとをまもる
町のなかで、実際にその姿を目でみて、
若い人たちや、子供達に 覚えてマネをしてほしい気持ちがあります。

カラダが大きく力の強そうなひとがワガモノ顔でほかのひとを「どけどけ」と言わんばかりにけちらしながら悠然と歩く姿や、
自分が(時間を)得することだけを計算し最優先に考えて、早足、耳栓イヤホンで語学学習や音楽を聴きながら、歩きスマホで情報取得やゲームをしながら歩行する姿、
それに対して、
進行方向や後方、ほかのひとの歩む速度やすすむ方向予測にも気をくばりながら、
つまずきそうなひとがいたら手をだせる姿勢、
前方不注意でいきおいぶつかりそうなひとがいたら、自分が無理ない角度でかべになって進路をずらしてあげる、
高齢者であゆみがゆっくりペースだったり、子供連れで進行が不安定なひとに対してうしろから「あおる」ような歩行者がでないように、その後方でまもってあげる。

実際にそのすがたをいまを生きる社会のひとたちに見せてあげる。
どっちが「カッコイイ」とあなたのこころは思いますか?

 

「おもいやり」を、一度は、おとながおしえてあげる責任

私は、むかしは「人間にはもともと思いやりや優しさがそなわっている」と考えていました。
だから、「いつかだれもがそういうものに気づくだろう。それぞれのこころの内にあるものなのだから」

という気分でいました。
しかし、それは結局、「自分からはそのことについて世の中に はたらきかける努力や行動は特にしない」
という「手抜き」や「なまけ」の言い訳のつじつま合わせを無意識にしていたのかもしれないとも思うようになりました。

UFOやオバケを一度も見たことのない人が、UFOやオバケの存在を信じられるだろうか?
「やさしさ」を一度も体験したことがなかったり、「おもいやり」を一度も実際にみたことがない人が、それを「よいもの」だと知ったり、自分の中に「種(たね)」をもっていたとしても、それがうまく成長させることができるだろうか?

社会はすべてつながっていると私は思います。
そして、社会とは、そこにすむ人間ひとりひとりの日常生活であり、その瞬間瞬間でのふるまいの総和だと言えるのではないでしょうか。

 

とはいうものの、ブックマークコメントに集まっている声は、正直な実態だと思います。

(※あとで何個か具体的に追記)
自分の体験と照らし合わせてうなずけるコメントがほとんどです。

 

「きれいごと」だけで世の中が変えられますか?

(※今後 書きたい内容)

 

付記

この文章は、「社会についておとながていねいに話をしてあげるたいせつさ」【その3】です。

普段はブックマークコメントに100文字以内で意見や気持ちを書き込むのですが、だいじなことだと思ったテーマについて、ブログで書くようにしています。


(※あとで追記)

・車の運転(道路のすれ違いやゆずりあい)の話題もでています

・「はてな匿名ダイアリー」過去に同様な話題がときどき出ています。


(※この記事は時間がなくて昼休み時間に書ききれなかったのであとで修正すると思います)